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現存する日本最古のジャズ喫茶です

1933年 (昭和8年)、創業。
 昭和初期の日本ジャズ黎明期にジャズ喫茶という日本独特の文化が始まった頃、20歳の青年・吉田 衛によって開業されました。横浜大空襲では店舗と6,000 枚ものレコード(SP)を焼失してしまいますが、兵役を終えて復員した吉田 衛は1948年に千数百枚のレコード(SP)を集め、ちぐさを再開したのです。
 1950年代当時の給与の3, 4割したLPレコード。 若き日の秋吉敏子、渡辺貞夫、日野皓正らは、横浜の米軍クラブで演奏するかたわら、「ちぐさ」でむさぼるように米国直輸入レコードでジャズを聴いて勉強したのでした。 ジャズのよき理解者である吉田の話に耳を傾けたといいます。
 ジャズと落語に精通する吉田は、人を見抜く力を持ち、落語やジャズの為にと奔走したのです。 見返りなど眼中にはなく、終わればただのジャズ喫茶 店主に戻るのです。 留守のお店は、常連のお客たちが守りました。多くの人たちに「おやじ」と慕われた吉田は、その生涯をジャズの普及と若いミュージシャンの育成に尽くしました。
 1994年に吉田 衛は他界しますが、妹(孝子)さんと常連の人たちによって続けられました。 2007 年に、地域の開発計画にともない閉店を余儀なくされますが、「ちぐさ」を愛する多くの人々の協力によって、5年後の2012年、横浜・野毛の現在地にて店はよみがえったのです。
 このように、いくたびかの苦難を乗り越え、「ちぐさ」は現存する日本最古のジャズ喫茶としての伝統を現在に受け継いでいます。

吉田衛のDNAは引き継がれている

「なんとか、日本にいいミュージシャンを育てたいというのがわたしの願望だった。それしかない」(吉田 衛「横浜ジャズ物語 ちぐさの50年」

コーヒー一杯で、一日中レコードの音から採譜していた若きジャズメンたちを吉田衛はあたたかく見守っていました。

2013年には優れた新人を発掘し表彰する「ちぐさ賞」を制定。その後、受賞者にはレコーディングの機会を提供し、限定アナログレコード、およびCDを制作・発売しています。

 

そう、この店には確実に吉田衛のDNAが流れているのです。

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おやじの想い出

柴田浩一

 (故人 ちぐさ賞委員/

  横浜ジャズプロムナード・プデューサー)
 「音楽の好きな人間に悪い人間はいない」オヤジさん吉田衛が、私の結婚式で主賓としていった言葉だ。
 へんくつ親父あるいは頑固親父の代名詞のように思われているが、実はそうではない。店に足しげく通う客は自分の子供のように接するし、仕事がないからと相談に来るミュージシャンには紹介をする。組合や同業の店のためにはリーダーとして東奔西走をするといった、他人のためにつくす人情味あふれる人だった。今どきこんな人はいない。
 「ちぐさ」に最初に入ったのが高校生の時だから、オヤジさんによって社会勉強が出来たと感謝している。
 今、思い出すオヤジさんの話を書いておこう。
 「コルトレーンがいってたよ。なんで日本人はジャズというのかってね。音楽でいいんだよ」コルトレーンの記者会見に立ち会った後。
 こんなこともあった。開店前の店の掃除をしていると「オイ、オイどっちに掃いてんだよ。入口から掃いて奥で塵取る。これが客商売のやり方だ」

おやじの想い出

藤澤智晴

 (ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館代表理事)
 水も出さないケチな店だって!?
冗談じゃない、水が欲しけりゃ、欲しいって言やいいんだよ 。大体よ、出したって飲まない奴が居るんだよ。無駄だろ、そんなの。水だって勿体無いし、グラスも洗わなきゃいけない。俺はね、影でぐずぐず言う奴ァは嫌いなんだ。何でもはっきり言って欲しいね。ついでに言っとくけどね、能書きたれる奴もやだね。どっかで聞いた風なこと並べ立て、小理屈こねくり回すような。いいものはいい、駄目なものは駄目。単純なんだよ、世の中は。

 肩書きや看板なんてものは信用しちゃいけないよ。人まねも駄目。何かこの、グッと来るものが無ければ、やってけないよ。音楽だけの事を言ってるんじゃない。何だってそうゆうもんだよ。ジャズを勉強したいって? あんたね、ジャズなんて勉強するもんじゃないよ。日本人なら、いい話、落語を聞くんだね。聞いて、酸いも甘いも噛み分けられるようになれば、ジャズも分かるってとこかね… とおやじは言っておりました。

吉田衛の略年譜
(横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年から)

1913年 4月8日、横浜市中区翁町2丁目で生まれる
1919年 横浜市立寿尋常高等小学校入学
1927年 山下町の輸出入商Z・吉田商会にボーイ

     として勤めながら横浜専修商業学校に通う
1928年 日本大通の「マスコット」でジャズと出会う
1933年 野毛町1-23に純喫茶「ちぐさ」を居抜きの

     まま650円で買い、店名はそのままで、

     「スヰング&ホット・ジャズ喫茶ちぐさ」に

     このときレコードは1000枚
1941年 レコードを1枚20銭で強制供出することに

     なったが6500枚のうち500枚だけを供出し

     残りは天井裏に隠す
1942年 交付の東部第63部隊に応召され、ただちに

              中支に派遣される
1945年 5月の横浜大空襲で「ちぐさ」焼失
1946年 6月に復員 翌年暮れ「ちぐさ」を再開
1948年 全国甘味喫茶店協同組合神奈川県支部長

             (67年まで)
1950年 神奈川新聞社・共同募金会共催の
フライヤー

     ジム・ジャズ・コンサートを企画
1956年 「ワルツ」のジャムセッションを企画・演出
1958年 落語家三遊亭円輔を知り、若手落語家の後援

     団体として「精進会」を上野・本牧亭で組織

     しその役員となる
1967年 神奈川県喫茶環境衛生同業組合常務理事

     (75年まで)
1969年 5月「ジャズ批評」誌座談会 メンバーは松本

     伸(テナー)、渡辺晋 (ベース)12月日本

     大学桜門ジャズ研究会主催シンポジウム「日

     本のジャズを考える」メンバーは岩浪洋三、

     相倉久人、平岡正明、コーディネーター川又

     志朗(フェリス女学院大学教授)
1970年 1月「ジャズ批評」誌座談会「日本ジャズが

     入ってきたころ」メンバーは松本伸(テナー)

     山口豊三郎(ドラムス)  10月環境衛生向上

     の功労により神奈川県知事表彰
1971年 野毛町周辺の有志による「江戸文化研究会」

     入会し馬生円蔵などを聞く  環境衛生業組合

     相談員 神奈川県環境連絡協議会評議員
1972年 6月「ジャズ批評」誌座談会「ジャズの大衆化

     ・ジャズ喫茶のあゆみ」メンバーは野口清、

     松坂比呂  7月「ザブリーム」誌で松坂比呂

     司会による座談会「自慢の一枚」  11月環

     境衛生同業組合創立5周年で同組合神奈川県

     理事長から表彰

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1973年 調理師育成の功労で神奈川県知事から感謝状1974年 「WASEDA JAZZ」誌第2号に「誰も知ら

     ない日本ジャズ史」を執筆・掲載翌年第3号

     に続編を発表  6月環境衛生向上の功労で全

     国喫茶連合会長表彰
1975年 神奈川県喫茶環境衛生同業組合副理事長(78

     年まで)  12月環境衛生向上の功労で神奈

     川県環境衛生中央会長表彰
1976年 「JAZZ」誌の座談会「新春放談・守安祥太

     郎の幻を明す」メンバーは南隆、安井陽、余

     語瀞  横浜市食品衛生指導員(80年まで)
1977年 環境衛生向上の功労で全国環境衛生同業組合

     中央会長から表彰
1978年 組合創立10周年で全国喫茶業環境衛生同業組

     合連合会長から表彰  横浜市食品衛生協会会

     長表彰 神奈川県調理師会長表彰 神奈川県

     喫茶業環境衛生同業組合理事長(80年まで) 

     神奈川県調理師会副会長ならびに神奈川県環

     境衛生中央会理事
1980年 食品衛生の功績で厚生大臣表彰
(以上、横浜郷土研究会会員・秋山佳史編

 1985年発行 横浜ジャズ物語「ちぐさ」の50年)
 

1986年 「横浜文化賞」受賞
1994年  81歳で永眠

2007年    妹(孝子さん)が受け継いぐも閉店を余儀なく

      される

2012年    現在地の旧コロンビアを新ちぐさとして再開
2022年    建替えのため一時閉店